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アスリートライフスタイル

スペシャルインタビュー▼ 動画の内容をインタビュー記事でさらに詳しく!

車いすテニス 上地結衣選手インタビュー

自分を支えてくれている人たちを大切に、目標へと向かうこと。そして、「昨日の自分を超えていこう」という想いが、新たな変化を生み、未来へとつながっていく。
上地結衣

車いすテニスプレーヤーの上地結衣選手は、パラリンピック東京大会のシングルスで日本人女子初となる銀メダルを、ダブルスでは銅メダルを獲得しました。20歳の時には世界ランキング1位に輝くなど、世界の舞台で華々しい結果を残しています。潜在性二分脊椎症の障がいを持って生まれた上地選手は、どのようにして車いすテニスと出会い、自分だけのアスリートライフスタイルを築いてきたのでしょうか。

競技人生最初の目標は、目の前の1ゲームを取ること。そこから世界は少しずつ広がっていった。

―車いすテニスを始めたきっかけと、競技を続けようと思った理由を教えてください

上地はじめは家族と一緒にスポーツができたらいいなという思いから、姉が軟式テニスをやっていたこともあり、車いすテニスを始めました。当時、競技思考は全くなかったのですが、「せっかく練習しているのであれば大会に出てみたら?」とすごく説得されたんです。でも、私はまだまだ大会に出られるようなレベルではないと思っていて。自分が納得して大会に出られるようになってからでないと、「負けるのが嫌だし恥ずかしい」とすごく拒んでいたのですが、半ば強制的に地元の小さな大会にエントリーさせられたような形で、出場することになりました。その中で、当時ずっと教えていただいていた車いすテニスの先輩に、「1ゲーム取ることを目標にしよう」、「今回は1ゲームだけ取ろう」と言ってもらい、実際にその1ゲームを取ることができたんです。でも、やっぱり試合に負けたことがすごく悔しくて「いや、これはもうちょっと練習する」と言って、その後すぐに練習に付き合ってもらった記憶が今でもあります。今考えると本当に良いタイミングで大会に出場できたことで、そこから少しずつ世界が広がっていったのだなと感じています。

全ての時間をテニスに注ぐという、強い覚悟と大きな喜び。

―初出場となったパラリンピックロンドン大会を終えて、リオ大会に向かう4年間で自らに変化を起こしたことはありましたか?

上地私はパラリンピックに出ることをテニスプレーヤーとしての目標にしてきて、それをロンドンで達成することができました。次は何かまた新しい世界を見たいと思っていたので、実はテニスはロンドン大会を最後にやめようと考えていたんです。ただ、多くの刺激を受けてパラリンピックから帰って来ると、やっぱり日本代表の選手団として日の丸を背負い、アスリートとしてさらに上のレベルを目指したいという思いが強くなって、続けることを決断しました。その上で、リオ大会に向けて今後の選手生活をどうするかと考えた時に、私が一番やりたくなかったことが、何かとの両立でした。それまでは、学業との両立、習い事とのバランスなど、色々なことと両立して行っていて、テニスは一番ではなかったんです。なので、もしテニスを続けていくのであれば、テニスだけでやり切ってみたいなと。それくらい自分の中でも相当な覚悟を持って続けることを決断しました。日々の生活リズムについてコーチからは、周りの友達が大学や短大に行っている間、平日の日中は自分はテニスが仕事なのでテニスの練習に時間を当てて、週末には友達と遊ぶような時間を作ったら良いのではないかと、自分でスケジュールを立てられるような環境になるからこそ、自分でしっかりとオンオフをはっきりさせないといけないよ、ということを言われました。また、自分のレベルに合った大会の選択や、テニスの技術向上に向けたオンコートだけではないトレーニングに励むなど、本当に生活の中心がテニス一色になりました。これまでは、何時間あっても足りないと思っていたので、全ての時間でテニスのことを考えていて良いんだと思うと、本当にワクワクしましたね。

失敗を次に生かせば、それは失敗ではなく大きな成長。

―時間の使い方など、これまでとは違った環境で準備して迎えたリオ大会を振り返って

上地リオ大会では、自分がこういうふうになりたいという理想を、全く出すことができませんでした。その4年間で一番練習していたのが、バックハンドのトップスピンという、それまで私が打ったことのないショットでした。それをリオ大会で出すために1日700球くらいを打ち込んで練習してきていたのですが、実際に緊張感のある場面や、ここは勝ちたいと強く思った時には出すことができなくて。このままではやっぱり終われないなと思いましたし、リオ大会で目指していた色のメダルが取れなかったということを生かして、東京大会で金メダルを獲ることができたら、それは失敗ではなくて「東京大会で金を獲るために越えなければいけない壁だったんだ」と思えるようになるだろうと。そうなるように、次の4年間を過ごそうと思っていました。

自分で選び判断してきたことが、テニスでも自分を支えてくれる。

―コートの上で上地選手を支えてくれているものは何ですか?

上地幼少期の自分の生活と結びついているのかなと思うのですが、両親や家族も含めて周りの人たちが、やりたかったら「やりたい」と言ってもいいんだよ、というような環境を作ってくれていました。歩けないから諦めないといけない、みんなと一緒に行動ができないから我慢しなければいけない、というのではなくて、やり方を変えればもしかしたら同じことができるかもしれないよねと。だからまずは言ってみて、自分がやりたいのか、やりたくないのかで判断をしなさいと言われていました。そして、その判断を私に委ねてくれていたということがすごく大きくて、小さい頃から何事も自分で決めるということをさせてもらっていた回数が多かったのかなと思います。そのおかげで、色々な場面に立たされた時に、納得して自分で判断しているので、後悔することがないんです。より良くするために、こちらの判断の方が良かったかなと思うことはありますが、それも自分で選んだ結果なので、じゃあ考え方をまた変えて、次の時により良くすればいいよねと。そういう思考で、いつも競技と向き合っています。

色々なことを経験して、本当に好きなものに出会って欲しい。

―これから上地選手のように世界の舞台を目指していくアスリートたちに、伝えたいことはありますか?

上地私は趣味ベースで、子どもの頃から色々なことを経験させてもらいました。特に集中してやっていた車いすバスケットボールは、テニスを始めても「バスケでのチェアスキルがテニスに生きているね」と言っていただいたこともありますし、ピアノを6年間ほど習っていたのですが、一度お話した方に、「何か音楽をやっていますか?」と聞かれたことがあるんです。「動きにすごくリズム感があって、何かを演奏しているような流れのある動きだったので」と。何かひとつのスポーツをするには、そのスポーツを極めることが良いように捉えられがちですが、一方でリフレッシュの時間に、例えば音楽を聴いたり、演奏したりということもそうですし、色々なことを経験した上で、自分の好きなものに出会って「これがやりたい」というものを見つけてくれたら嬉しいなと思います。そしてそれが、障がいのある子もない子も、テニスだったらもっと私は嬉しいです。

上地結衣

上地 結衣 選手

1994年4月24日生まれ。兵庫県明石市出身。先天性の潜在性二分脊椎症であったが、子どもの頃から車いすバスケットボールや陸上など様々なスポーツを楽しみ、11歳の頃に車いすテニスを始める。高校3年時にロンドンパラリンピックに出場。シングルス、ダブルス共にベスト8に進出した。2014年の全仏オープンのシングルスでグランドスラム初優勝。ダブルスでは日本人女子選手初の年間グランドスラムを達成した。シングルスで銅メダルを手にしたリオパラリンピックの翌年は全豪オープン、全仏オープン、全米オープンで優勝。世界ランキング1位に輝いた。東京パラリンピックでは、シングルスで銀メダル、ダブルスで銅メダルを獲得。世界ランキング2位。(2022年2月時点)。

始めよう!アスリートライフスタイル!

リオパラリンピックでメダルを獲るために、上地選手が起こした一番の変化は、テニスに当てる時間を増やしたことでした。平日はコート内外でのトレーニングやスキルアップのための練習、大会の準備などに費やし、土日は友人と遊びに行くなどリフレッシュも忘れませんでした。このように、オンとオフのメリハリを大切にしたスケジュールを立て、それを実践していくことは、アスリートライフスタイルを築く上でとても重要なことです。
また、上地選手は子どもの頃から「やってみたい」という自分の気持ちを周りの人たちに伝え、自らの意思で様々なことを決断してきました。“自分はどう思うのか”、“どう考えるのか”という“自分自身の心の声”を大切にすることが、きっとあなたの競技生活を支えてくれるはずです。

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